備忘録

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食べられた除草ヤギ

除草ヤギというのはこの街でも何年か前からやっていて、雑草をヤギに食べてもらうという試み。この街では春の終わりころから公園の横を流れる小川の両側に囲いをつけてそこにヤギを放す。川幅は3mくらいだが両側が斜面になっていてそこそこ広くてたくさん草が生える。日本によくある川のように両側が土手というのではなく地面から緩やかに掘れていてその底に水が流れている小川。

ヤギ隊の仕事場は200mくらいなので10頭以上が市職員?として頑張っている。草が生えてくると食べてくれるし水は小川で飲めるという一石二鳥。秋になるとヤギ部隊は撤収して囲いもなくなる。

日本の除草ヤギが被った災難について
除草ヤギこのリンクはしばらくすると切れると思うので本文を引用。
引用開始=================
窃盗容疑:除草ヤギ、食べられていた…ベトナム人を逮捕
 岐阜県美濃加茂市の里山で「ヤギの除草隊」として活躍し、人気だったヤギを盗んだとして、県警関署などは4日、愛知県春日井市牛山町、無職、レ・テ・ロック容疑者(30)らベトナム人の男3人を窃盗容疑で逮捕。レ容疑者ら2人は「解体して食べた」と供述し、1人は否認している。 容疑は8月9日夕から10日朝にかけ、美濃加茂市山之上町の岐阜大の研究用農場からヤギ2匹(計約7万円相当)を盗んだとしている。
 盗まれたのは、除草費用削減のため同市が手がける「ヤギの除草隊」約20匹のうちの2匹。首輪二つが残されているのを飼育していた岐阜大職員が見つけ、盗難の被害届を出していた。
 食べられたと聞いた市土木課の除草隊担当、酒向一也さん(37)は「触れ合いを楽しんでいた子供たちもショックだろう」と残念がった。岐阜大応用生物科学部の八代田真人准教授(42)は「文化の違いもあり、家畜には食材としての役割もあるので割り切るしかない。ただ、他人のヤギを盗むのは許せない」と話した。
=================引用終わり
幸いこの街ではヤギが食べられたという話しは聞いたことがない。
岐阜大学の方の「文化の違いもあり・・・」は当を得ていていい。多くの日本人の感覚だとあのかわいいヤギちゃんを食い殺すなんてベトナム人というのはどんな野蛮人なんだ、けしからん!ではないだろうか?

飼っていたヤギを盗んだということなのでもちろん倫理観の低さは否定できないけれど向こうの人にとってはヤギを殺して食べるのは珍しいことじゃないんだと思う。ベトナムの食習慣を細かくまでは知らないので確定的には言えないけれどこの犯人たちが特に極悪というわけではないと思う。

 この近所にはそこかしこにうさぎがいる。茶色いうさぎでかわいい。こういうのは日本人の感覚だと愛玩動物。同じ市内に住む友人から聞いた話しだと友人宅付近でアフリカから来た何人かがうさぎを追い回していたことがあったらしい。聞いてみると掴まえて食べるんだと言っていたそうな。うさぎを見てかわいいと思う日本人も、おいしそうだと思って追いかけるアフリカ人も文化習慣の違いだけで善悪の問題ではない。

もうひとつ、数年前まで裏庭でニワトリを飼っていた。子供のころにお祭りのヒヨコ釣りで釣ったヒヨコをニワトリになるまで飼った経験がある。狭い団地暮らしだったのでニワトリになってからは小学校の鶏小屋で飼ってもらうことにした。毎日世話をして外にも連れて回ったりとかわいがった記憶があったのでヒヨコをペットとして飼おうと思った。飼ってみるとやっぱりかわいい。ニワトリになると毎日卵を産んでくれた。

網の付いた小屋部分と卵も産めて雨風を避けられる箱部分を組み合わせた大きなニワトリ小屋も丸一日かけて作った。冬はこの地域は低温になるのでニワトリ用の電球を入れて温めた。子供達も大切にしてくれた。卵を産んでくれるのはおまけでうちのニワトリは完全にペットだった。でも知り合いに「うちにニワトリおるで」と言うと「食べるのか?」これがお決まりの反応だった。

彼、彼女たちが非常識でも残酷なわけだはなくてそれが彼らの常識だというだけのこと。多文化共生、大量の移民受け入れというのはこのヤギ事件と同じような常識の違いに帰因する事件が頻発するということを理解しておかないといけない。

アメリカはいろんな地域からの移民で成り立っている。それを以て多文化共生しているという意見を見たことがあるがそれは大間違い。アメリカでは共生なんかしていない単に住みわけているだけ。歴史的にアメリカ人は移民慣れしているのと元来のおおらかな性質もあって表面上は成り立っている。でも実際にはそんなに綺麗に物事は進んでいない

日本で大量の移民受け入れなんてことを言っている連中がいるけれどとんでもない話しだ。よく訪問させていただいているブログの管理人さんが最近「財布を落としたけれどそのまま戻ってきた」ということを書いておられた。私たちの感覚だと落ちている財布をネコババするのはちょっと気が咎める。仮に拝借したとしてもそれをよいことだとは思わない。これがまともな日本人の常識感覚じゃないかな。でも一歩外に出ると「そんなもん落としたやつが悪いんだからもらって帰るのが当然」だという常識の方が普通。

数年前のこと、子供が公園でUSBドライブを拾った。動きそうだったので中身を確認すると個人の写真が大量に入っているようだった。その中に個人特定できる情報もあった(軍のIDの写真)。落とし主はさぞ困っているだろうと次の日警察署に届けに行った。

日本の警察だと拾得物の扱いには慣れている、ところがここの警官は要領を得ない。○○公園で昨日子供がこれを拾って、開けてみたら軍のIDの写真が入っているので届けに来たと言ったら怪訝そうな顔をしていた。日本の交番だと拾得物の届けの用紙を出してそこに必要事項を記入する。いつものお決まりの業務、ところがここではそうではないらしい。結局名前と電話番号だけ伝えておしまい。もちろんその後なしのつぶて。

貴重品の落とし物が警察に届かないことが前提になっている社会。対応の警官も???。そういう社会なんだとは思いつつも目の前でその対応を見たときには、こいつはバカなのか?と思った。でもここはそういう社会。情けなく思うのは日本人である私だけで当のアメリカ人はそんなことなんとも思っていない。

落とし物関係でもう一つ、シアトルにいたころに家内が財布を落としたことがある。当時住んでいたアパートメントの入り口付近で落としたらしくてご丁寧に届けてくれた人がいた。もちろん現金は綺麗さっぱりなくなっていた。カード類だけでも戻ってきたのは奇跡的だと思った。紛失したとわかった段階でカード類は止めていたので誰かが使おうとしても使えなかった。

捕捉すると、紛失に気づいたのは夕方4時ごろで外出から戻って財布が見あたらなかった。駐車場から自宅の間だの20mくらいの間で落とした可能性が大きいと考えていた。その間を何度も探し歩いたが見つからなかった。もちろん入り口付近はくまなく見渡した、何度も。障害物もなく遠目で見ても落とし物があれば見えるような場所なので探していたときに財布がそこになかったのはまちがいない。

夜になって親切に「建物の入り口に落ちていたから」と届けてくれた人がいた。二人で何度も探したところになかったものをなぜ彼女が今見つけたのか?彼女が数時間持っていたのか?誰かが数時間持っていて彼女が入り口を通る前に入り口付近に捨てたのか?どちらにしても不自然な話しだった。でも届けてくれた彼女には感謝。

さて、文化習慣の異なる移民が大量に入ると裏庭のニワトリがいなくなったらとなりのやつが食べていた・・・、玄関先に繋いでいたポチがいなくなったと思ったら近所のやつが食べていた・・・こんなことが普通に起こりうる。もちろん裏庭のニワトリを盗んだことや玄関先のポチを食べるのは犯罪である。しかし窃盗という部分を除けば、即ちイヌを手軽に殺しておいしくいただく、というのは文化習慣に由来する文化的差異である。良し悪しとは少し違う話。ここが難しいところ。

多文化共生というのはこういう差を双方が許容して初めて成り立つのである。大量移民政策を推進するということはその覚悟ができているということなんだけど、どうなんだろうか?仮に日本人が外国人のユニークな風習を受け入れたとしても外国人が日本独自の風習に理解を示すとは限らない。移民大国のアメリカではそういう連中が「○○街」と呼ばれるような一角で自分たちだけの閉じた世界を作っているなんていうのは普通にある。ろくに英語を話せないアメリカ人、永住権保持者本当にいるから困る。

2年前シンガポールに仕事で行ったおり帰路はシカゴで入国した。そこで列の順番を乱す中華系がいたので「おい、おまえの順番じゃないだろ!」と注意した。そうるすと向こうは単語しか話せない。前に行きたいと言いたいようだったけど「おまえいく、おれいく」これを繰り返すだけ。並んでいた列は国籍(アメリカ)か永住権を持っている人専用のゲートなので彼もどちらかを持っているということ。

文化習慣のちがいは当事者の一方だけが許容することでさへ困難であるのに相互理解となると全く無理な相談ではないかな。一定の距離を置く棲み分けは一定程度可能であると思うけれど相互に文化を受け入れるなんてことが容易にできるとはとても思えない。もしそんなことができるのであれば既に世界はもっと均質になっているだろう。

人のものを盗むのはどこの国でも犯罪行為である。ところがイヌを食べる、除草ヤギが食料に見える、これは文化習慣の違い。子供の遊ぶ公園の砂場で小さい子供に用を足させる。こんなのが普通にまかり通っている世界から来た人がたくさんいる。それもこれも受け入れての多文化共生。

この近所にも子供に公園の砂場で用を足させるようなのがいくらでもいる。小さな子供が公園で遊んでいるときに、隅っこではなく、遊ぶエリア内で自分の子供の用便をさせる。今日の日本ではあり得ない光景。もちろんアメリカ人はそういうことは絶対にしない。おもしろいことに、見かけが私たちとは全く違うアメリカ人がこの辺りでは一番理解しやすい。

外国人ではなく同じ日本人同士でも育った文化圏が違うと感覚に大きな差を感じることがある。私は生粋の大阪人なのでよきに付け悪しきに付け大阪人根性が骨身に染みついている。関東の「粋き」を理解できる人にとっては私のような大阪人は下品で受け入れがたい存在だろうと思っている。これも良し悪しではなく文化習慣の差異。それでも外国人との差を考えると日本はなんと均質性の高い世界なんだろうと思う

例えば日本人は好んで納豆を食べる、それを見た外国人が「日本人はなんとえげつないものを食べるんだ」と感じるのも文化習慣の違い。そこそこの日本通でも納豆はご勘弁をと言われる。

大量の移民受け入れというのはこの逆を容認することができるということ。この移民だらけの国で暮らしていると日本ではお目にかかることのなかった大きな文化習慣の違いを目の当たりにする。その理解と覚悟がなければ大量の移民受け入れは後に悲劇を生むだけである。多文化共生をきちんと実現できている国があれば是非教えていただきたい。

まあこれはビジネスなんで例としては適切でないかもしれないけれど、反捕鯨と騒ぐ輩がいる。これなんてまさに日本文化を正面から攻撃しているだけ。とは言っても反捕鯨や反日はそれにお金を出す頭の弱い連中がいるので大きなビジネスとして成り立っている。ビジネスとは言っても始末が悪いのは他国の文化習慣を攻撃対象とする(本人たちが意識しているか否かは別にしてその根底には)非常に強い差別意識に端を発しているビジネスであるところである。

ちなみにアメリカで反米は許されない。日本は寛容な国なのでメディアが日本以外の国のお先棒を担いで反日ビジネスの宣伝をやってもかまわないというまことに自由な国である。そんなことをしても大手新聞やテレビの重役が突然バタバタと消えていったなんて話しは聞いたこともない。平和で結構なものだと思う。アメリカでそんなことをすれば社会的に抹殺されるだけなら幸運だろう。日本人というのは穏和で呑気な生き物だと思う。日本人ほど控えめな(切れるまでは)民族は世界広しといえどもほかにはいないだろう。

このヤギ食い事件を見て文化習慣の違いというものがどんなことなのかを理解する人が増えるといいと思っている。彼らは特殊なベトナム人ではないと思う。ただそういう文化習慣を持っているだけ。もし将来日本で大量の移民受け入れを行うと最後には日本人が切れてしまってとんでもない外国人排斥運動が起こることになる。このアメリカでさへ地域によっては移民問題はかなり深刻な状況になっている。

背景に持つ文化習慣が大きく異なる人たちとつき合い、同じ社会で生活するにはそれなりの距離の取り方や対応の仕方を身につけないといけない。私はアメリカへ来た当初はnoということをほとんど言わなかった。今では「この私でさへ」ふざけたことを主張するやつにははっきりnoというし時々どき爆発する。爆発するのはそれによって相手が理解する可能性がある時だけで多くのケースは「言ったところで埋まらない差を持っているので」あまり言わない。そういうのは警告だけしてあとはお引き取りいただく、わかりやすい言い方をするとクビ。理解できないレベルのやつは(こちらに火の粉がかからなければ)完全に放置する。放置する方が圧倒的に多い。それくらい文化習慣の違いというものは大きい。

身近に接していて話しあう機会がたくさんあってもそう易々とは埋まらない
ものだ。さらに言うと私が接する外国人は大学までは出ている。出身国ではよくできる方に入る連中。理解力も常識レベルも上の方にある連中と話し合っても理解し合えないことの方が多い

いわんや職がなくて流れてくるような層だとこんなものではすまない。平均的な日本人よりは外国人慣れしているであろう私が日本に戻ったときに「大量移民受け入れ」なんて政策を実施されていたらとてもじゃないけれどやってられない。

今のお人好しの日本人にはこの「食べられた2頭のヤギの死」から学べる(学ぶべき)ことがたくさんある。距離の取り方と相手に主張すべきを主張する、こういうことが苦手な日本人は多文化共生には一番向いていない人種。なんせ丸腰になれば相手が攻撃してこないなんて発想を思いつく民族だから。こんな珍しいことは日本にいる一部の突出して発想が豊かな人を除いて有史以来誰も思いつかなかったと思う。西洋人であるアインシュタインならどう転んでも思いつかなかっただろう。

「丸腰だと誰も攻めてこない」なんて発想が生じるほど寛容な日本社会は多文化共生とはちょうど対極の世界にある。脳天気な性善説が成立しうる範囲を超えての移民受け入れは悲劇という結末しか生まない。これは外国人を否定するという意図はなく、文化習慣の差というものは綺麗事で言うように簡単に埋められるような代物ではないということが言いたい。このヤギ食いベトナム人の話は笑い話ではなく間近に迫った悲劇の序章だと一人でも多くの日本人に気づいて欲しい。

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  1. 2014/12/09(火) 05:39:28|
  2. 日常生活
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ドイツ語

アメリカ人の多くは言語は英語だけで十分だと思っている。片言の外国語を知っているのはいくらもいるけれど外国語を習得するために要する努力の壁を越えるほどまでには外国語の重要性は感じないものらしい。まあここが田舎だから特にそうなのかもしれない。日本によくある英会話学校のような外国語の学校は街中では見たことがない。

最近アメリカ人の前でドイツ語の本の表紙と著者の名前を読む機会があった。いつも言葉では引け目を感じているんだけど彼らはアルファベットのドイツ語読みすら知らない。なんと言ってもこちらはドイツ語が読める、とは言っても2行読むのに辞書を片手に2時間はかかる。

まあ発音くらいはできるので英語とは発音の違う言葉を読んでみせた。日ごろはアメリカ人に発音を教えるなんてことがないので妙な感じがした。ドイツ語特有の音で英語では発音しにくいものがあることを発見。

でも彼らのすごいところは発音ができなくても文章の意味がなんとなく理解できる(人がいる)らしい。同じラテン語由来だといっても日本人が英語とドイツ語は似た言語だと思って勉強しようとするととんでもないことになる(なった)。

少なくとも日本人にとって英語と独語は別言語である。見ただけで、なんとなくでもその意味がわかるというのは恐れ入る。

英語というものが体に染みこんでいればその共通祖先であるラテン語を通して別方向に進化した兄弟について理解ができるんだろうか?この理解ができる理由については折を見てきちんと尋ねてみたいと思っている。
  1. 2014/12/04(木) 07:47:45|
  2. アメリカ暮らし
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近況

バタバタしているうちに時間が経ってしまいました。放置中にお越しいただいた方、コメントいただいた方ありがとうございます、と返事しなくてごめんなさい。

少しずつ平常運転に戻れればよいと思っています。
  1. 2014/12/04(木) 06:06:56|
  2. 日常生活
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